趣味と無知の価値
発端はこのツイート
僕のタイムラインでも、2つの意見が存在した。その意見をまとめると次のようになる。意見を提供してくれた3名に感謝する。
依頼側(相手)が悪い派
相手に教えろではなく教えてくださいの気持ちが必要
作者から価値を語っても相手は理解してくれない
相手が悪い、価値観は人それぞれだが、相手が作者を見くびっている
相場を下調べをせずに依頼した相手がほぼ全面的に悪い
依頼を受けた側の対応にも問題がある派
相手は不勉強かもしれないが、相手に情報を教えてあげることはできなかったのか
依頼を受けた側がツイッターで文句を言うのはどうなのか
原価がこれだけかかるから負担をお願いするということはできなかったのか
相手との相談をせずに私信を公開して悪意だけ煽るのはどうなのか
趣味人としてその対応はどうなんだ
僕は、相手が無知で無礼であることを公共の場で悪だと断罪してもそこから何も生まれないと思っている。むしろ第三者の悪意しか生まれない。相手が仮に無礼だとしても無知だとしても、そのことを公共の場で断罪しても意味はなく、相手との交渉以外にそれを解決する方法はないと思うのだ。
もちろん、交渉したとしても無意味に終わることが多いかもしれない。人の価値観は大人になるまでに固まってしまうものであり、本質的な改善を求めて改善するのは子供だけであるということも理解しているからだ。だからこそ、公共の場で叩くことに意味を見いだせない。
おそらく、この私信を公開した人は、ここまで騒ぎが大きくなるとは思っていなかったのだろう。それは、結果的に無知であったし、私信を多くの人の目に晒したことは無礼であったと言わざるを得ず、依頼側がやった行為と何ら変わらないのではないかというのが一部の人が感じる違和感だと思う。依頼側だけが叩かれているのはバランスが取れていないから、依頼を受けた側にも問題があるという事実を指摘をしているだけであり、依頼側に問題がないとは思ってはいるまい。
一方、多くの人が感じる依頼側へのいらだちは、依頼側の無礼や無知がなければ問題そのものが起きなかったのだから、問題を起こした依頼側が絶対的に悪いという考えだろう。ただその背後には、依頼を受けた側=俺達 vs 依頼側=テレビ局の構図を想像し、これは正義と悪の戦いであるとは考えてはいないだろうか。
人は聖人君子にはなれない。僕も業者に無茶な依頼をして断られたことは1度や2度くらいはあるし、逆に無茶な依頼を受けてその時間ではできませんと断ったこともある。ここでの登場人物においても、1万円でと依頼をしてネットに晒されるとは思いもよらなかっただろうし、ツイートしてしまった側もここまで騒ぎが大きくなるとは思いもよらなかっただろう。
ただし、このネットで繋がってしまった世界において、悪意は簡単に増幅してしまう。だから、この手のネタは事実をもっとぼかすか、居酒屋で酒のつまみにするくらいがちょうどよかったのではないだろうか、と。
もう一つ。テレビというのはやはり未だに影響力が大きく、ネットよりも好意の発信力が強いと僕は思っている(もちろん悪意の発信力もだが)。そこからの依頼を受ける趣味人として、若干の不利益は覚悟してでも自分の趣味の宣伝の場に使ってやろうというのも一つの考え方ではなかっただろうか。もしかしたらそこから新しい商機が生まれたかもしれないではないか、と。だがもう後の祭り。
では。
スカートじゃない方のセーラー服を少年に着て欲しいという特殊性癖
世の中にはいろんな特殊性癖がある。2chでは性癖偏差値と呼ばれているらしいが、これに載っていないニッチな特殊性癖も世の中には多数存在する。
その一つに、セーラー服+少年(ショタ)の組み合わせという特殊性癖がある。これ布教するため、セーラー服+少年(ショタ)の組み合わせを現実にしたアニメ・ゲームのキャラを紹介する。他にもいると思うので、知っている方はぜひご紹介いただきたい。
犬塚信乃
八犬伝―東方八犬異聞―に出てくる主人公
画像は9話のキャプションより転載
基本的に赤白のローブをまとっているのだけれど、この回は確か女学校に入るためにセーラー服を着せられるという、そんなストーリーだった気が。
兵部京介
絶対可憐チルドレンの敵役の親玉かつスピンオフアニメTHE UNLIMITED 兵部京介の主人公
画像は7話より
超能力所持者でそれ故に7歳で陸軍に入る。そのきっかけになった蕾見との出会いのシーン。終戦時、ノーマルの敵になることを恐れた隊長に殺されかけるも生き延び、敵役として暗躍することになる。
「THE UNLIMITED 兵部京介」 | バンダイチャンネル
先島光
凪のあすからの主人公
画像は1話より
海の世界に住む少年。 始めの頃は悪ガキだったのが、色々あって少年に成長していく。残念ながら短パンではないが、それ以上に露出の多いシーンは沢山ある。というか1話の最初のシーンからショタコンを鼻血ブーさせたのはこの業界では有名(筆者調査に依る)。
Ra*bits
あんさんぶるスターズ!に登場するショタコン御用達ユニット
pixivの説明曰く、『ちいさくてかわいい』をテーマとするファンシーユニット。
法に触れるので三次元を紹介するのは控えておく。
では。
鉄血のオルフェンズ最終回予想
この記事は2016年10月8日に書かれました。最終回放送日は2017年4月2日です。
放送が開始すると、最終回はどうなるんだろうってつい考えてしまうのだが、いざ最終回になると開始時に何を考えていたのか思い出せなくなるので、備忘録として書いておく。
ミカ(三日月・オーガス)の状態は右目右手は阿頼耶識につながっていないと機能しなくなった(1期最終回)。そして、アイン君(アイン・ダルトン)は生命維持装置なしでは生きられない体になったが、阿頼耶識を使ってガンダムを操れるようになった(1期後半)。
ここで、アイン君とミカの違いを考えると、動かなくなったのは全身か右目右腕だけかの違いと、原因が外的要因か否かであり、阿頼耶識を使えばガンダムを動かせる設定は同じである。
オルフェンズの世界では、阿頼耶識システムは忌避されている。その理由は(今のところ)不明だが、一つの仮説として長く使い続けると使用者に反動が返ってくるのかもしれない。阿頼耶識につながっていないと生身の体はもちろん、ガンダムも動かせなくなる。仮に、阿頼耶識の力によって戦争を終結したとしても、そこで使われた人間は、戦争の道具である阿頼耶識がなければ生きていけなくなるという矛盾が生じる。だから、阿頼耶識システムが戦後になって忌避されるようになったのではないか。
鉄華団の最終目標は、平和な世界で生きていく力と資金を手に入れることであり、戦争の道具である阿頼耶識やガンダムがなくても良い世界を作ることでもある。ミカが農場を経営したいという夢も同じ方向を向いている。
ただ、2期終盤において戦闘が激しくなる中で、ミカの体は右目右腕以外も動かなくなるなるだろう。それは、両目であり両腕であり両足かもしれない。
彼が夢見た世界を作るために、激しい戦いを生き抜き、自立経営をするために十分な農場や資金や資源を手に入れられたとしても、彼はそれを直接見ることができず、得た作物を触ることができず、農場を歩くことができなくなるのではないか。もしそれらをしたいなら、農場を一瞬で焦土にできる戦争の道具を使わなければならないという矛盾が起こるのではないか。
何かを得るためには相応の対価が必要ではあるが、戦争や紛争をして人を犠牲にしてまで手に入れたい利益というのは一体何なのか。考えは尽きない。
男の子と女の子の違い(C++編)
付き合っている相手が男と女のときの違いについてC++で記述してみた。
男の子の場合
void boy() { try{ if(do_something()){ throw std::exception(); } }catch(...){ sex(); } }
女の子の場合
void girl() { try{ int error_count=0; while(true){ try{ if(do_something()){ throw std::exception(); } }catch(...){ error_count++; } if(error_count>error_limit){ break; } } throw std::exception(); }catch(...){ try{ if(sex()){ throw std::exception(); } }catch(...){ try{ if(shopping()){ throw std::exception(); } }catch(...){ try{ if(eat()){ throw std::exception(); } }catch(...){ if(apology()){ throw std::exception(); } } } } } }
分かる?
科学と成果と金(予算)
何のために研究者は科学をやるのか。
一つの例は誰も知らない未知の領域を探索することにあると思う。大隈氏はいいことを言っている。
誰も手を付けていない未知の領域を探索し、その領域でたまたま良い成果が出ると、その領域が発展し学問になる。科学者としてそうなるのは非常に面白い結果なのだが、未知の領域を探索して必ずしも良い成果が出るとは限らない。良い成果が出ず、学問にならず、失われた領域になってしまうことも多々ある。
「社会にとってどういう利益があるのですか」という質問をオープンキャンパスをするとよく受ける。研究者がこの質問を上手くはぐらかすことは簡単だが、僕たちが言いたいのは未知の領域の探索を日々考えている研究者にとって、社会への利益はほぼ関係のないことだ。そんなことを考えて日々研究していない。オープンキャンパスのその一日だけ考える機会があるということだ。
話を戻して、未知の領域を探索した結果、面白いものは何もなかったとする。すると次の予算(競争的資金)獲得は出来ないことが多い。競争的資金は多くの場合連続性が求められるからだ。すると次の探索ができず、研究が続けられないことになる。
もちろん、競争的資金以外に何もないわけではない。大学には運営費交付金という予算があり、大学で研究をやっていれば何の成果もなくとも学生の数や教員の数等に応じて研究費が割り当てられる。学生を研究によって教育するための基礎資金と言っていい。
しかし、競争的ではないほぼ唯一の資金である運営費交付金がこの10年以上に渡り年率1パーセントで減らされ続けている。多くの大学関係者が問題視しているこの問題は、すなわち巡り巡ってノーベル賞に関わってくるかもしれないのだが、残念ながら社会的に認知されている問題とは言いづらい。
今後、この問題が解決される見込みはないし、このまま削減が続けば日本から基礎研究において新しい芽が出るのは一部の予算が潤沢な大学に限られることになるだろう(そこでも年率1パーセントで減らされているのだが)。最後に割を食うのは、人以外の資源がないこの国の国民だと思うのだけれど、皆さんはどう考えますか。