びしょの日記 (vipshota’s diary)

これはショタコン的視点からの雑多な日記帳です。まじめな記事が5割、ふまじめな記事が5割でできています。将来黒歴史になる予定です。

憲法9条:護憲派は存在が矛盾している

はじめに断っておくが、僕は憲法の専門家でもなければ法学部で学ぶような知識は持っていない。だが、僕は護憲派というものが存在すること自体が矛盾そのものだと考えるようになった。

 

ある調査によると、学者の半数以上は自衛隊憲法違反であると主張しているらしい。

 

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しかし、憲法違反ではないor違憲と判断しないのが通説と言われており、それが最高裁の結論である。憲法学者の半数以上は馬鹿なのだろうか。彼らがもし「自衛隊」そのものをなくすべきだと主張するのであれば「自衛隊」を確実に違憲にし解散に追い込めるような憲法改正を提案するべきではないのか。また、今とは違う形で「自衛隊」を存続させたいのならば、限定した形での「自衛隊」存在を認めるような憲法改正をするべきではないか。

 

集団的自衛権についても同じことである。憲法9条を読む限り、条文の中で個別的自衛権と集団的自衛権の区別をしているようには思えない。「自衛権」そのものを否定しているか、もしくは「自衛権」については何も言っていないか、僕の低い国語力ではどちらかとしか思えない。

 

一方、先の憲法学者の多くは違憲であると言っている。だが、実際には法律はでき、集団的自衛権はある条件下で行使できるようになった。まだ行使はされていないので、違憲立法審査権だっけ、これによる最高裁の判断を待たねばならないが、統治行為論とかいうのかな、これで判断はされないんじゃないか。

 

この学者たちはただの学者であって、国民や国際情勢を向いて議論をしていないところに大きな問題がある。国民が理解できないような条文をそのままにし、自分たちが偉くて勉強しているから自分たちの解釈のほうが正しいなどということで、自分たちのイデオロギーを主張しているに過ぎない。

 

彼らの本分は、解釈の分かれる条文などはなるべく分かりやすく誤解のないように作り変えることではないのか。集団的自衛権に反対するのであれば、国民がそのようにはっきり理解できるように憲法を改正するよう努めるべきだ。学者が勝手に解釈し、それを国民が選んだ政治家の判断に勝つということは、あってはならない。

 

今まで議論をしてこなかった理由はなんとなく想像できる。護憲派の中で自分たちが望む社会を実現するための憲法改正の議論をしだすと、まとまらずに空中分解してしまうのだろう。だから、改正議論そのものを避けてきたのだ。自分たちはどのような社会を実現したいのか、そのために国の根幹たる憲法をどうするのか、このとても大切な議論から逃げてきたのが護憲派なのだ。

 

今あるものを自分たちの都合のいいように解釈して国民に押し付ける護憲派と、国民的な議論を起こして国のあり方を今一度議論をしようとする改憲派と、どちらが正常かといえば、明らかに改憲派の方である。主張のいかんではなく、その姿勢が民主主義国家として正しいか間違っているかということである。

 

護憲派のみなさんは、今からでも遅くはないから、自衛隊違憲になるように、集団的自衛権違憲になるように、憲法改正をする議論を始めたらいかがか。それを国民の審判に付してこそ、本当の民主主義であるはずだ。