大学における軍事研究 2
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「善良な」科学者が、予算によって制約されることで、やりたくもない「軍事関連」の研究費を獲得しに行かなければならない現状は「悪」であるという批判。
僕は、この手の批判をする人たち、仮に「平和主義者」と言っておくが、この平和主義者についてひとこと言いたい。
まず、「善良な」科学者というのは何か。それは、科学のため、社会のため、自分のため、国のためなど、それぞれの比重は異なるものの、何かのために誠実に研究をする人たちである。平和主義者はおそらくこの「国のため」という言葉に敏感に反応するに違いない。しかし、世の中には「国のため」に仕事をしたいと思っている人も中にはいる。平和主義者に目をつけられるのが嫌で、そう公言することは少ないだけだ。
「軍事関連」というのは何か。僕は、日本における科学の発展そのものが、一つの軍事的抑止力になっていると言う説を推したい。仮に日本と他国が戦争になったとき、日本に他国と戦えるだけの技術力があるのか、日本を占領しようとしたときに抵抗するだけの底力があるのか、その力の一つが科学力である。
幕末に他国から開国を迫られたとき、日本の高い識字率や西洋とは違う発展を見せた科学力を見たとき、占領するよりも仲良くした方が得策だと欧米に思わせた、それが一種の軍事力になる。いまさら普通の研究と軍事関連の研究を分けたところで意味はない。どちらにせよ、最悪の事態を防ぐための抑止力になるはずだ。
僕は、平和主義者が嫌いだ。自分たちが正しく、全ての科学者が自分たちの考えと同じだと勘違いをしている、そういう自惚れが嫌いだ。偏狭な考えが嫌いだ。
やりたい人がいれば「軍事関連」の研究も大いに進めるべきだと思うし、自分の研究が純粋な科学の世界で評価されないのであれば、「軍事関連」で一息つかせるのだってありだと思う。国のために研究をしたい、軍事関連の研究をしたいと思う研究者の「自由」を奪うべきではない。
朝起きたら日本以外の世界が滅んでいた
現時点だと
— 陸将の第一師団長 (@GeeGaku) 2016年12月19日
・駐トルコのロシア大使が22歳トルコ警察特殊部隊員により射殺
・犯人はシリアに関する発言をし射殺
・同じ頃チューリッヒのイスラムセンターで銃撃
・ベルギーだと対テロ部隊が交戦中
・テルアビブ発イスタンブール行きのイスラエル機が緊急事態宣言
こんな感じですか…
このツイートを見て思い浮かんだのが、朝起きたら日本以外の世界が滅んでいた話。
自然な設定は難しいかもしれない。逆風土病で日本人以外が死ぬウイルスが1日で世界を滅ぼしたとか、日本人以外が凶気に犯されて殺し合ったとか、ラノベにしてもご都合主義が過ぎるかもしれない。
だが、少しだけまじめに考えてみよう。日本だけで生き抜くことは可能だろうか。
外国の石油の輸出がストップする。緊急時の備蓄はあるが約200日分しかないはずで、99.9%を輸入に頼っている。政府が緊急事態宣言をして、電力量の制限や計画停電を始めるだろう。それでも、資源がない以上外に求める以外手はなさそうだが。
食品の輸入も止まる。自給率の定義にもよるが、カロリーベースでの自給率は40パーセントしかない。つまり、日本人が摂取できるカロリーはその日を境に40パーセントになっていく。食料の確保、というか農場の確保?をしなきゃいけないだろう。
ネットはどうか。海外サーバーに頼っているサービスは全て止まるだろう。僕が朝起きて真っ先に見るツイッターは夜で時間が止まっているだろう。海外の全てのドメインネームサーバーが止まっても日本のネットは接続できるだろうか。
どういう実装が可能だろうか。ラノベかゲームか。個人的にはよく設定を練った上でゲームで実装してみたい。
大学における軍事研究 1
ここでは過去の報道等まとめるだけとする。
2016年12月
2016年5月
2015年1月
1987年2月
名古屋大学平和憲章(1987.2.5制定)
http://kyoshoku.coop.nagoya-u.ac.jp/kakehashi/0201/36p.html
1967年10月
軍事目的のための科学研究を行なわない声明 (日本学術会議)
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/04/07-29-s.pdf
続き
君たちは自分の子供と公立小学校に何を期待しているのか
世の中いろんな不平・不満が溢れている。
その一つのジャンルに、小学校の算数教育における理不尽な減点問題というのがある。
かけ算の順序問題を知っているだろうか。
詳細はWikipediaにまとめられているので参考にして欲しいが、要は小学校の時になぜか書かされたかけ算の式の書き方の問題である。僕は、この問題を解くために必要な要素は3つあると考えている。
- 文章から一つ分の数とそれが何人分であるかを読み取ることができる
- 式は
一つ分の数 × 何人分か
と書くことを理解している - 計算ができる
日本の小学校の教育では、3つともに理解でき表現できることをもって満点が与えられる制度になっている。その是非はともかくとして、そういう制度になっているから、それぞれの段階でつまずく可能性がある。1で躓いた場合はどうしようもないが、2と3は独立につまずく可能性がある。
研究職をやっている僕ですら、数のかけ算において式の順番が逆でも困ることはない。それこそ教科書や参考書などの人に見てもらうための文章を作らない限り、気にする必要はない。だから、子供たちに無用なことを考えさせているという批判はもっともだと思っている。現行の制度自体を改めるという意見にも賛同できるところがある。
ただ、この問題の根幹はそこにはない。
これは僕の勝手な妄想だが、騒ぎ始めた親はそれなりに賢くて、過去「できる小学生」だったため1~3でつまずくことがなく減点されることもほとんどなかったのだが、その子供が「2でつまずく小学生」だった場合に問題になる。自分の分身であるはずの子供が、自分は「できた」問題で躓き、かつ自分の学歴よりも低そうな小学校教諭に減点されるということに対する感情、つまりプライドの高さと僻んだ親バカ精神がこの騒ぎを生み出しているのではないだろうか。
何を言いたいのかというと、自分の子供と公立の小学校に期待しすぎ、ということである。
少年たちの成長の物語 機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ 第32話
子供はいつか死ぬ。命が絶えるということもあるが、子供としての子供らしさが死ぬ(=大人になる)ということでもある。
鉄華団の少年兵は良く戦った。見てる方まで疲れる戦いだった。
その中で、死ぬことを恐れなかったアストンが、死にたくないと言いながら死んだ。家族ができ、守りたい仲間ができ、その一番の仲間であり家族を守って死んだ。
家族を守れなかったタカキは、そのけじめとして、かつては家族の一員として信じていた元仲間であり元凶の一人を、自分の意思で殺した。その瞬間、タカキは自身の甘さを殺し、子供らしさを殺してしまった。
対照的に、大人も二人死んだ。守るべき仁義を破り契約相手を危険にさらして死んだ大人と、仁義を守って自害した大人だ。子供たちがいずれの大人にもなって欲しくない。
タイムライン上でタカキの死を知た。その後に
アストンの死を見てくる
と言って32話を見始めたのだが、認識が甘かった。そして言い換えなければなるまい。
アストンの命が消え、タカキの子供らしさが死んだ
と。